特集「阪神・淡路大震災から20年 その2「私の体験 私の意見」」 特集「阪神・淡路大震災から20年 その3「復興のすがた」」

No. 444 2015/1月号
特集「阪神・淡路大震災から20年 その2「私の体験 私の意見」」
特集「阪神・淡路大震災から20年 その3「復興のすがた」」

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◆防災随想

◇緊急輸送道路沿道建築物の耐震化への取組/尾関桂子(東京都都市整備局市街地建築部建築企画課)(1ページ)

◆特集「阪神・淡路大震災から20年 その2 私の体験 私の意見」

◇地震以後、木造住宅で変わったこと、そして変わらないこと/五十田 博(京都大学 生存圏研究所 教授)(2ページ)

私は木造建物の地震時挙動を主たる課題として研究をしている。1995年の兵庫県南部地震以前は木造の研究者の数も研究の量も少なかったが、木造が多く被害を受け、研究者や研究数が増えた(図1)。そして、それ以後多くの実験的・解析的研究がなされ、科学的に地震挙動をある程度論じられるようになった。研究が増えたので地震被害が減ったかというとそうではなく、1995年兵庫県南部地震のような極大地震でなくとも、各地で地震が起こるたびに木造住宅は被害を受け続けている。人命を損なうような被害に発展することも少なくない。

◇被災地での体験から/内田直樹(元神戸大学教授)(1ページ)

譬えようのない轟音と衝撃のような激しい揺れで目を覚ましたものの、一瞬、何が起きたのか全く分からなかった。厨房の方から聞こえるガラスや陶器がぶつかりあい床に落下して立て続けに割れる大きな音を耳にして、これは地震であろうと思うに至った。すぐに揺れが収まったので妻と居間に出て、蝋燭の灯りを頼りに壊れた家具や散乱され放題の室内を見て言葉を失っていたところへ、長男が飛び出してきた。大学受験を控えて珍しく朝方まで起きていたので寝入りばなを起こされたとのことであった。

◇変わったことと変わらなかったこと/大越俊男(東京工芸大学)(1ページ)

当時、筆者は、1967年創立の日本設計で構造設計群総括部長を担っていた。新しい会社だったので、旧耐震基準で設計された建物があまり無く、関西支社と違い、応援を送る程度で、直接対応に追われることは少なかった。しかし、救援か施主対応か、優先順位は今でも、課題である。

◇鉄筋コンクリート造建物の被害調査/大野義照(大阪大学名誉教授)(2ページ)

わが家(箕面市)は震源地から北東へ直線距離で55kmの距離にある。都市ガスが自動的止まったので震度5弱程度以上、近くの西国街道沿いの古い木造建物が何棟か倒壊した。20年前の1月17日の早朝、ドンという音と衝撃で飛び起きた。それまで関西では地震がなく一方関東ではしきりに地震が起きていたので、これは関東で大地震が発生したと思った。1階台所に下りると食器棚の観音開きの戸が開き、すべての食器が床に落ちそれらのほとんどが壊れていた。

◇阪神・淡路大震災と木造住宅の耐震性/大橋好光(東京都市大学)(2ページ)

あの時の光景は忘れられない。阪神・淡路大震災の2日後、調査に入ったときのことである。阪急神戸線の西宮北口駅から、南に向かって調査を開始すると、まもなく古い建物の多い地区に入った。そこには、道路があるはずであった。ところが、写真1のように、両側の建物が倒壊して道路側にはみでていて、どこまでが道路で、どこからが敷地か判別できない。かろうじて、路肩を示す白線と、人が歩いた跡が、ここが道路であることを示していた。

◇阪神・淡路大震災から20年に際して思うこと/岡田恒男((一財)日本建築防災協会 理事長 東京大学 名誉教授)(3ページ)

過日、神戸大学で開催された日本建築学会の大会に参加するために神戸市に数日滞在した。震災の跡は全くと言って良いくらい見当たらない。見事に復興したものだと、関係された方々のご苦労とご努力に思いを馳せた。他の震災を軽視するわけでは決してないが、阪神・淡路大震災並びにその復興過程が社会に与えた影響は計り知れない。地震防災の分野で筆者が直接関係した事柄だけを取り上げても十指に余る。ここでは、それらのうちのいくつかを取り上げて簡単に総括してみたいと思う。

◇「ふた昔前」の出来事を風化させないために/小見康夫(東京都市大学工学部建築学科)(2ページ)

1995年1月17日朝

いつものように朝起きてリモコンを手にTVのスイッチを入れると、突然目に飛び込んできたのは、延々と横倒しになった高速道路の映像と興奮したアナウンサーの声だった。日本の高速道路が倒れるなど、とても現実の事とは思えなかったが、その場所が神戸周辺で、阪神・淡路島に甚大な被害が発生しているらしいことがわかり、直ちに大阪府下にある実家が心配になった。急ぎ電話をかけてみたがつながらず、何度かけ直しても「回線が混み合ってつながりにくくなっています」との自動アナウンスが聞こえるばかりである。携帯メールも無い時代で、ただただTVの中継映像に見入るしかなかった。

◇建物の被害調査と全数被害率/壁谷澤寿海(東京大学地震研究所地震火山災害部門 教授)(1ページ)

2011年の東日本大震災(3月11日午後2時46分)では、3月12日から3日間、また、3月末から半年間で20回近く被災地に滞在して学校建物を中心に、被害調査、被災度判定をお手伝いしながら、被災者の様子、現地の問題が静かに進行していく様子を垣間見た。今回の地震動は基準法の極稀レベル(レベル2)に近い強震動が極めて広い範囲で生じたのであるが、津波による死者と原子力発電所の事故の衝撃が大きすぎて、建物の被害(ひび割れや一部の崩壊、ブレース破断、天井落下など)は、とくに驚きもなく当然のこととして受け止められていた印象がある。

◇木造住宅の耐震性 -地震被害とその後の20年-/河合直人(工学院大学建築学部建築学科 教授)(2ページ)

木造建築物の耐震性を研究する身からすると、1995年1月17日の地震被害は、ともかく衝撃的であった。その前の1~2年の間にも大きな地震がいくつかあり、震度6も記録されていたが、木造住宅の振動による被害はそれほど大きくなかった。最近の住宅は意外に耐震性が高いのではないか、という楽観的な見方もあったように思う。それが見事に打ち砕かれる出来事であった。

◇日本でも発生した建物の中間層崩壊/北川良和(元慶應義塾大学教授 工博)(2ページ)

2014年9月日本建築学会大会(近畿)に参加すべくJR神戸元町駅に下車、宿泊予定のホテルに向かう途中、左にD百貨店を見ながらメリケンロードを波止場に向かって歩いた。完全に復興した街並や建物、それもそのはず、1995年阪神・淡路大震災発生後20年の歳月が経過、まさに今昔の感、20年前の都市災害としての大惨事が回り燈籠のように脳裏に浮かんで、涙がでてきた。

◇阪神・淡路大震災を契機とした地震防災プロジェクト/久保哲夫(東京大学・名誉教授)(2ページ)

阪神・淡路大震災を契機に進められた地震防災関連のプロジェクトの整理を試みる。震災後の1997年9月に、科学技術庁(現:文部科学省)内の航空・電子等技術審議会は同庁長官よりの諮問「地震防災研究基盤の効果的な整備のあり方について」に対して答申を行った。これを受けて、大型三次元震動実験施設と、筆者が関連した地震防災フロンティア研究センター(以下、EdM)の整備が行われた。前者については、多くの方がご存じのよう、震災より10年を経た05年3月に兵庫県三木総合防災公園内に完成し、(独)防災科学技術研究所の世界最大級の三次元震動破壊実験施設E-defenseとして多くの大型振動実験を実施し、その成果を世界に向けて発信してきている。

◇もうひとつの「震災の帯」論争/纐纈一起(東京大学地震研究所)(1ページ)

先月号に書かせていただいた記事の中で、「震災の帯」という言葉を紹介しました。阪神・淡路大震災の中で神戸側の大きな被害の地域は、気象庁の震度Ⅶの領域(図1)でよく知られているように、六甲山と海岸線のほぼ中間ぐらいの市街地に、幅約2km,長さ25 km以上に渡って細長く分布しています。構造地質学が専門の嶋本利彦京大名誉教授は東大地震研教授時代に阪神・淡路大震災の報道に接していち早く現地入りし、震災の翌々日の調査でこの分布を発見しました。この間の事情を報告した岩波書店「科学」の記事1)の中で、この細長い地域を「震災の帯」と名付けています。

◇危機管理体制の強化と防火構造建築物/小林恭一(東京理科大学大学院国際火災科学研究科 教授)(3ページ)

阪神・淡路大震災から20年になる。本誌から「私の体験・私の意見」というテーマで、その時感じたことや意見を自由に書いてほしいという依頼があったので、木に竹を接いだような表題で恐縮だが、総務省消防庁時代の経験と、その後研究者として見てきたアジアの防火事情という、二つの異なる視点から、最近考えていることを書いてみたい。

◇この20年は何だったのか?/境 有紀(筑波大学システム情報系)(2ページ)

阪神・淡路大震災から20年ということで、まさに時の流れを感じる。私は大学で1年生の担任をしているが、彼らに大都市神戸が壊滅的な被害を受けた大地震があったと話しても、彼らが産まれる前の話で全く実感がないと言う。

◇大災害に備える卒災思考/菅原進一(東京理科大学総合研究機構 教授)(2ページ)

このところ地震・台風・豪雨・竜巻・噴火などによる各種災害が頻発し、日本は災害列島と化している感がある。阪神・淡路大地震(1995年1月17日(火)5:47頃)では世界初の近代都市施設が被災したと言われ、高速道路が横倒しになる等長期間交通が遮断され、大火も7か所で発生した。その1年前に起きたノースリッジ地震(1994年1月17日(日)4:31頃)でも高速道路の橋桁が崩壊したが、日本ではこのような被害は起きないとコメントした研究者もいたがそうではなかった。北海道南西沖地震(1993年7月12日(月)22:17頃)で津波被害が拡大したのは、日本海中部地震(1983年5月26日(木)12:00頃)では津波が地震発生後約10分で到来したが、北海道南西沖地震の時、震源に近かった奥尻島では発生後数分で津波に襲われ、夜間であったことも被害を大きくした一因である。

◇兵庫県南部地震は想定外の地震?/高田至郎(神戸大学名誉教授)(2ページ)

神戸市には、昭和38年に制定された神戸市地域防災計画は存在したが、水害・高潮・山崩れなどを想定したものであった。1984年5月30日にマグニチュード5.6、震度Ⅳの山崎断層地震が発生した。これを契機に急遽、地震を想定した地域防災計画を策定するという市長指令があり、2年足らずで、1986年に地域防災計画・地震対策編が出来上がった。著者もこの策定に関わることとなったが、地震規模想定には、防災担当行政職員、神戸海洋気象台、神戸大学研究者などが議論を交わした。最終的には震度Ⅴの強(強震動)が設定されることになった。

◇阪神・淡路大震災の火災調査についての思い出/田中哮義(京都大学名誉教授)(1ページ)

阪神・淡路大震災はついこの前のことのような気がしていたのに、あれから既に20年もの歳月が流れたのだと思うと不思議の感がする。震災当時はつくばの建築研究所(建研)に勤務していたが、地震の発生は出勤前の朝のテレビニュースで知った。テレビ局だったか新聞社だったか記憶が定かではないが、オフィス内部の映像では建物がまるでクネクネとツイストダンスでもしているかの様に見えた。

◇阪神・淡路大震災から20年 私の体験/辻本 誠(東京理科大学国際火災科学研究科)(2ページ)

発災時は、名古屋の自宅にいて、揺れでさすがに目が覚めた。最初は東京で大地震かと思ったが、テレビを見ているうちに関西と分かり、大阪の両親に電話したところ、不思議に一回でつながり「被害は食堂で皿が一枚割れただけで無事」とのことで、また、寝てしまった。起床が何時だったかは記憶にないが、それからは大変だった。刻々と被害の状況が伝わり、火災も起きているということで、NHK名古屋に呼ばれて、ニュースでコメントすることに。「街の構造が同じなら、名古屋でも同じことが起こる」などという訳の分からないコメントをした記憶がある。放送局を出るところで、当時、名古屋勤務だった山崎登氏(現解説委員)に「地震で1000人以上亡くなるなんて、先進国とは思えない」と言われ、大学に戻って急いで、過去の地震例から南イタリアで4000人死亡の地震があることを見出してホッとした。

◇阪神・淡路大震災から20年 私の体験・私の意見/友澤史紀(東京大学名誉教授)(2ページ)

昨年9月12-14日、神戸大学で建築学会大会が開催され、久しぶりに神戸を訪れた。20年前、大震災直後3回にわたって当地に赴き調査をした時の大被害の痕跡はなく、大都会の賑わいを取り戻していた。実際には、まだ傷が癒えない方々が多くおられるであろうが、20年という歳月は表面的には復興を成し遂げるのに十分な時間なのかと感慨を覚えた。

◇当時を振り返り、今あらためて考えること/中埜良昭(東京大学生産技術研究所)(1ページ)

その日はちょうど論文の締め切りが近づきつつあったため、早朝から学生と打ち合わせを予定していました。研究室に入るなりテレビに映し出されていた映像を見て何かの特集番組かと思い、「なんで朝から地震特集なの?」との開口一番の問いに「いや、神戸が大変なんですよ」と学生に言われ、「えっ、神戸が!?」と思わず答えたのを昨日のことように思い出します。関西で生まれ育った筆者には、地震らしい地震の記憶がなかったため、これが率直な反応でした。

◇阪神・淡路大震災に学んだ東京の事前復興対策/中林一樹(明治大学 政治経済学研究科 特任教授/日本災害復興学会会長)(1ページ)

その日から大阪で開催される日米防災会議に出席しようと、5時半に起きて支度をし、天気予報を見ようとテレビをつけた。関西に大きな地震が発生し、状況は不明であるが新幹線は始発から運行停止していた。コートを着たままテレビに見入った。

◇阪神・淡路大震災を振り返って/西川孝夫(首都大学東京 名誉教授)(1ページ)

1995年1月17日、朝のテレビニュースで関西地方で大きな地震が発生し、数人の死者が出ている模様と報道された。地震の発生確率が低いと考えられていた関西での大きな地震はかなりやばいぞと思っていると、死者の数がウナギ登りに増え、次第に被害の状況が映像で映されるにつれて近代的国際都市神戸を襲った未曾有の災害を伴う地震であることを知った。多くの建物の倒壊、高架高速道路の転倒、長田地区の火災等、我が国では都市部を直撃した福井地震以来の大被害地震となった。

◇阪神・淡路大震災の頃の空気/長谷見雄二(早稲田大学創造理工学部建築学科 教授)(1ページ)

災害から10年たつと、その記憶は風化するといわれてきた。さらに10年たてば、災害の頃の赤ん坊は成人し、復興建築も街の風景に溶け込んで、若者の間では歴史上の事件となっている。同時に、大災害から20年たてば、その影響は世の中に何らかの形では広く浸透しているはずでもある。それは何だろうかと考えながら、当時を思い返してみたい。

◇阪神・淡路大震災に見る建築基準法の改正と建物被害/林 静雄(東京工業大学名誉教授)(1ページ)

建築基準法は、1968年十勝沖地震を契機として、1971年に改正され、さらに、1978年宮城県沖地震を受けて、1981年にいわゆる新耐震基準として改正された。阪神・淡路大震災は、大災害であったがゆえに、地震被害から、これらの基準法の改正が、建物の耐震性向上に果たした効果を統計的に考えることができる。日本建築学会では、災害調査の一環として、震度Ⅶ相当地区の鉄筋コンクリート造建築物ついて全数調査を行い、建物を第1世代(1970年以前に建設された建物)、第2世代(1971年~1981年に建設された建物)、第3世代(1982年以降に建設された建物)に分類して被害の状況をまとめている。

◇兵庫県南部地震から教えられたこと/藤谷秀雄(神戸大学大学院工学研究科建築学専攻)(1ページ)

兵庫県南部地震発生の日の朝は、当時勤務していた建設省建築研究所の先輩が「神戸で震度6だぞ」と知らせてくれた電話で目覚めた。慌ただしく出勤すると、阪神高速3号線が倒壊した映像や、死亡者が200名を超えたというニュースが入ってきた。建築研究所はどのような活動をするのか早く知って準備したかったが、これほどの被害に対して、所としての方針はすぐには決められないようであった。

◇阪神・淡路大震災を体験し、今、考えること/藤原保幸(伊丹市長)(2ページ)

私は震災の前年、兵庫県庁で公的住宅の整備を担当する課長に赴任しました。そして震災発生当日は伊丹市で被災し、住居は全壊しましたが、その日から、兵庫県災害対策本部員として、応急仮設住宅、続いて復興住宅と被災者向け住宅の供給を担当することになりました。そして現在は、縁あって伊丹市の市政を預かり、「安全・安心のまちづくり」を標榜しています。

◇1995年の兵庫県南部地震におけるSRC造建築物の崩壊/南 宏一(福山大学名誉教授)(2ページ)

1923年の関東地震において、SRC構造の耐震性能の信頼性が認識されて以来、今日までの90年間、我が国において最も信頼性のある耐震構造として普及発展し、日本建築学会SRC規準を含めて、その耐震設計技術は、鋭意改良を重ねて今日に至っている。しかしながら、1995年の兵庫県南部地震でSRC造建物の受けた試練は極めて重要な教訓を我々に与えたものであるといえよう(写真1、2)。すなわち、関東地震で生まれたSRC構造の耐震建築としての「神話」が関東地震後の最大級の地震であった1995年の兵庫県南部地震で崩れ去ったということであった。

◇兵庫県南部地震前後の行動/村上雅也(千葉大学名誉教授・一般財団法人日本建築防災協会副理事長)(1ページ)

鉄筋コンクリート造建築物の耐震診断の判定値と各種建築物の応急危険度判定法の作成に携わってきていただけに、地震当日、被災現場に入って受けた衝撃は特別なものがあった。惨憺たる被害に茫然自失となり、どの程度の耐震性レベルの建築物が被害を受けたのか、崩壊したのかが分からずに苦悩しながら、また、応急危険度判定実施の必要性を感じて時々判定を試みながら、現場を見て歩いたという記憶がある。

◇阪神・淡路大震災における建築物応急危険度判定支援活動の思い出/森 民夫(長岡市長)(1ページ)

建築物応急危険度判定活動は、阪神・淡路大震災において初めて実施されたと記憶している。私が保存している資料の中に、(財)日本建築防災協会発行「地震被災建築物の被災度調査・判定用シート」1991年版があり、阪神・淡路大震災の発生以前から、応急危険度判定の技術的な条件整備がなされていたことがわかる。その技術を活用し、地震発生後ただちに応急危険度判定の体制を確立したことは、当時の建設省の大英断であった。地震発生の翌18日には、特に危険な建築物の判定にとりかかり、5日間で2,825棟の建築物に立ち入り禁止の札を貼り付けた。そして22日には、本格的な建築物危険度判定業務を開始し、以降、2月14日までの間に46,610棟の調査を実施したのである。全国初の取り組みであるにもかかわらずこのスピーディな対応は高く評価できよう。

◇阪神・淡路大震災から20年 建研の対応と私/山﨑 裕(一般社団法人建築研究振興協会顧問(元建設省建築研究所長))(1ページ)

私は、1968年に当時の建設省建築研究所(建研)に入所した。研究分野は、耐震工学である。入所の年の5月に1968年十勝沖地震が発生し、特に鉄筋コンクリート建物を中心に大きな被害を生じた。建研からは構造研究者のほとんどが現地に赴き被害調査に当たったが、入所間もなかった私も参加を許された。これが私の建研での初仕事であった。その後、新耐震設計法の開発に係る総合技術開発プロジェクト(新耐震総プロ)を始めとして、いろいろなプロジェクトに関わったが、入所26年後、1994年4月には、研究部を離れて企画部長職を務めることとなった。やがて阪神淡路大震災が発生する。建研としてこの未曾有の事態にどう対処すべきか、一刻も早い判断が必要であった。所長(当時の所長は岡本伸博士)以下各研究部長からなる幹部会で方針を決定した後、建設本省との調整を経て直ちに建研全体が動き出すことになる。

◇大阪も被災地だった/吉村英祐(大阪工業大学工学部建築学科)(1ページ)

1995年1月17日早朝に発生した兵庫県南部地震による死者数は6,434人で、うち兵庫県が6,400人(神戸市4,564人、西宮市1,126人、芦屋市442人、宝塚市117人等)と、人的被害も兵庫県に集中した。だが、大阪府下でも31人(大阪市18人、豊中市9人、池田市・吹田市・箕面市・堺市が各1人)の死者が出ている。これは、1978年に発生した宮城県沖地震での死者数(27人)を上回っている。

◇阪神淡路大震災から/和田 章(東京工業大学名誉教授

阪神淡路大震災から20年が過ぎた。日本人の平均寿命の約1/4であり、十分長い年月である。一方、宇宙の起源、宇宙の大きさ、地球の営みの歴史などと比べると、人の一生など瞬間の短い年月である。ただ、一人の一生は感じているより長い。生きている間に人は色々な出来事に出会うように思う。特に今は世界中の出来事がテレビやインターネットを通して知らされるからなおさら色々なことに出会う。300万人もの人々の命を失うまで止められなかった第二次世界大戦の終わり、1990年前後には資本主義と共産主義の戦いが終了、日本を襲った幾つもの大地震と台風、そして世界の各地を襲う地震と台風、同時多発テロによる世界貿易センタービルの崩落、チェルノブイリ、スリーマイルアイランドに続き日本の原子力発電所にも起きた大爆発など、このほか環境破壊、地球温暖化など、一人の人生の短い年月の中でよくも色々なことが起きるものだと驚く。

◆特集 阪神・淡路大震災から20年 その3「復興のすがた」

◇阪神・淡路大震災20年と住宅耐震化のあゆみ/山盛貴重(兵庫県建築指導課・防災耐震班長)(5ページ)

今年1月17日には阪神・淡路大震災の発災から20年を迎える。兵庫県では、震災20年に向け、年度当初から「阪神・淡路大震災20年事業」を推進し、震災の教訓を内外に発信する取組を進めている。

◇生き残った神戸の被災建物/吉村英祐(大阪工業大学工学部建築学科)(5ページ)

1995年1月17日早朝に発生した兵庫県南部地震は、阪神間や淡路島を中心に死者6,434人、全壊約10万5千棟、半壊約14万4千棟、被災マンション2,574棟(うち大規模被災172棟)、全焼6,982棟のほか、高架の高速道路・鉄道の倒壊・崩壊など、甚大な人的・物的被害を与えた。あれから間もなく20年の歳月が過ぎようとしている。

◆行政ニュース

◇定期調査報告に関する告示の一部改正について/国土交通省住宅局建築指導課(1ページ)

建築物の定期調査報告に関する調査項目、調査の方法及び判定基準は、平成20年国土交通省告示第282号で定められていますが、平成26年11月7日にこの告示の一部を改正する告示が示されました。(平成26年国土交通省告示第1073号;施行は平成27年4月1日)

◆災害報告(速報)

◇2014年11月22日に長野県北部で発生した地震による建築物の被害調査報告/槌本敬大(建築研究所材料研究グループ)・中川貴文(国土技術政策総合研究所)(18ページ)

糸魚川-静岡構造線の北部に位置する神城断層が起点である可能性が高い1)とされる地震が2014年11月22日に発生した。この地震により、建築物の被害が発生したため、建築研究所及び国土交通省国土技術政策総合研究所は国土交通本省住宅局の要請を受け、被害の初動調査2)を11月24日に行った。本稿では、そこで得られた被害の概況を報告するが、一部11月29,30日に行った二次調査3)で得た情報の一部を含む。さらに、地盤の被害等については別途調査4)を行っているが、本稿には含まない。なお、地震により被害を受けた現地の方々には、心よりお見舞い申し上げるとともに、生活基盤の早期再建を祈念いたします。

 

 

*情報交流制度にお申し込みいただいた方には、当協会の月刊誌である「建築防災」をお配りしています。

 

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その他詳細につきましては、下記事務局までお問い合わせ下さい。

一般財団法人 日本建築防災協会 建築防災編集係

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